寂寥、再び

小学四年生まで、わたしは筋金入りの鉄道少年だった。

人が電車に乗るのは、どこかへ行きたいからである。しかし当時のわたしは違った。その電車に乗りたいから、電車に乗る。それだけだった。ある土曜の朝、父に連れられて上野駅へ向かい、東北へ走る臨時列車の赤と白のボディを目にしたとき、気づけばひとりでその列車に乗り込んでいた。切符に書かれた行き先など、どうでもよかった。

終着の平駅に降り立って、はじめて途方に暮れた。

帰りの電車まで、三時間ある。九歳のわたしには「時間を潰す」という概念がまだなかった。とりあえず駅ビルの書店へ入り、ドラえもんの図鑑を立ち読みしたが、時間は少しも動かなかった。腹は減っていなかったが、喫茶店へ入った。メニューを開き、一番見慣れたものを頼んだ。エビピラフだった。家でよく食べた、冷凍のエビピラフに似ていたから。

小学三年生が、ひとりで、駅ビルの喫茶店で、エビピラフを食べている。

一口目は喉を通らなかった。二口目で涙がこぼれた。三口目のエビピラフは、しょっぱかった。

声をかけてくれた人がいた。駅長室へ連れていかれ、やさしい駅長さんが切符を振り替えてくれた。家へも電話を入れてくれた。上野に着く時間を、父に伝えてくれた。その丁寧さを、わたしはいまも忘れない。

それきり、「乗りたいから乗る」旅はしなかった。小五で野球が始まり、鉄道少年の時代は静かに終わった。

今日、銀座でひとり、回転寿司に入った。いつもは家族と来る店だった。皿を取る子どもがいなかった。タッチパネルを奪い合う声もなかった。美味しかった。美味しかったのに、平駅の午後と同じ感情が、四十年ぶりに胸をよぎった。

いつも誰かといた場所に、はじめてひとりでいる。ただそれだけのことが、あんなにも人を、静かに揺さぶるのだった。

寂寥、とはこれだったか、と思った。

一人ぼっちで泣くことは、もう、ないだろう。それがすこし、惜しいような気がした。