一番好きなアプリは何かと訊かれたら、わたしは迷わずGoogle Photoと答える。ほかにも毎日のように開くアプリはいくつもあるけれど、それらはたいてい何かを済ませるための道具で、好きとか嫌いとかいう話にはそもそもならない。地図に好意を抱いたりはしないし、メッセージのアプリに感謝することもあまりない。けれどGoogle Photoだけは、はっきりと「好きだ」と言える。何度考え直してみても、答えは変わらない。
かつて写真というものは、どこかにしまっておくものだった。ローカルのフォルダの奥に、あるいは外付けハードディスクの暗がりに。さらに昔をたどれば、それは紙に焼かれて、アルバムの台紙の、半透明のフィルムの下に閉じ込められていた。指で押さえると、ぴたりと貼りつく、あの感触。写真を見るというのは、本棚から重たいアルバムを引き出してきて、膝の上で開く、という一連の身体的な動作のことだった。
だから「お金を払い続けないと写真を保存できない」という事態に最初に直面したとき、わたしは少しばかり切ない気持ちになった。月々いくらかを払い続けないと、自分の過去が人質に取られたままになる。サブスクを払えなくなったとき、この写真たちはいったいどこへ行くのだろう。誰かに看取られることもなく、どこか遠いサーバーの片隅で、静かに消えていくのだろうか。そんなことを、けっこう本気で考えたりもした。
外付けハードディスクが一度、何の前触れもなく壊れたことがあった。あのときの、軽い目眩のような感覚を、わたしはまだ覚えている。物理的に手元にあるということは、物理的に失われうるということでもあったのだ。そう考えると、雲のどこかに預けておくというのは、案外わるくない話なのかもしれなかった。
ともあれ、それも遠い昔の話だ。
今ではGoogle Photoは、数あるアプリの中でも珍しく、「通知を待つアプリ」になっている。たいていのアプリの通知は、こちらの時間を奪いにくる小さな侵略者のようなもので、わたしはそのほとんどをオフにしている。けれどGoogle Photoだけは違う。向こうから何かを差し出してくるのを、こちらが待っている。そういう関係を結べているアプリは、考えてみるとほとんど存在しない。
もちろん、死ぬまで払い続けるのか、と思わないわけではない。
昨日も、キッズの習い事が終わるのを車の中で待っていた。夕方の、少しだけ斜めになった光が、フロントガラスごしに差し込んでいた。エンジンを切った車内というのは、世界からほんの少しだけ切り離された、奇妙に静かな場所だ。そこへ、ちょうど通知がやってきた。巧みにキュレーションされた写真のまとまりを、わたしはなんとなく、指でなぞるように眺めはじめた。気がつくと30分が経っていて、わたしはまんまと「これめちゃ懐かしい〜!」というメッセージを送ってしまっていた。完全に、彼らの思う壺である。
けれど、写真が貯まっていることそのものが嬉しいのではない、と思う。たぶん、そうではない。ある出来事のこと、ある場所のこと、誰かとの関係性のこと——アルゴリズムが、こちらの許可も得ずに、ある朝とつぜん差し出してくるそれらが、どういうわけか、いちいち尊いのだ。「3年前の今日」とか、「○○での思い出」とか、向こうが勝手に名前をつけてまとめてくる。最初はそのお節介に少し抵抗もあったのだけれど、今ではむしろ、自分では二度と並べ替えられなかったであろう順番で、過去を見せてもらっている、という気さえする。
昨日にいたっては、なんだか「もう終わってもいいのかもしれないな、人生」というような、奇妙な多幸感にまで包まれてしまった。べつに後ろ向きな意味ではない。ここまでの時間が、ちゃんとここに残っていて、しかもそれなりに豊かだったと、画面の向こうから静かに肯定されたような、そういう種類の満ち足り方だった。
Google Photoは、わたしにとってもう写真のストレージサービスではない。
それは過去にコンテキストを与え、豊かに捉え直してくれる、いわば人生の編集のようなサービスになってしまっている。撮ったときにはまるで気づかなかった意味を、何年もあとになって、向こうから静かに教えてくれる。あの日のあの一枚が、実はひとつの季節の終わりだったとか、もう会えなくなった誰かとの、最後の写真だったとか。撮っている本人には、その瞬間にはわからないことばかりだ。
だから、たぶんわたしは死ぬまでこれに払い続けるのだろう。過去を編集してもらうための、ささやかな月謝のようなものだと思えば、それはそれで、わるくない契約のような気がする。

