RHYTHM*
「実名で行こう。」について
この記事は、tadafusahonda.com/blog で2009年4月から2013年3月まで公開していたブログ「RHYTHM*」から移したものです。元の URL は www.tadafusahonda.com/blog/2010/11/25/「実名で行こう。」について/ でした。リンクの先や埋め込み、当時の画像は、いまは表示されないことがあります。
須田さんがFacebook上で「実名で行こう。」という取り組みを少し前に始めている。始まった瞬間に賛同させていただいたんだけど、ちょっと落ち着いてきた(きちゃった)感があるので、この機に便乗して前々から思っていることを軽くまとめてみることに。こんにちは。本多忠房と言います。32歳です。
まず、個人的には実名推進派。自分自身では匿名でないと困る、というケースにほとんど遭遇したことがない(街中で知らない人に「本多さんですよね? ブログ読んでます」とお声掛けいただいたことは2回だけある)。もうかれこれ何年もブログやらサイトやらに実名を載せているし、メールアカウントも実名で、TwitterのIDも実名。ちなみに2chに書き込んだことや増田を書いたことは一度もないし、書きたいな、と思ったことも今のところない。ただ、匿名だからこそ行えるものがある、ということには全面的に賛成だし、「インターネット全面実名化法」みたいなのができたらちょっと嫌だな、と思う。もしそうなったら気持ち悪いから国外逃亡する。
で、匿名って集合で捉えたり客観視すると名無しでAnonymousなんだけど、匿名で発言している個人の立場から考えると、「実名ではないもうひとつの人格」なんだ、というのが考える上でのポイントだと思ってる。現実世界とリンクさせていないもうひとつの人格。つまるところ、匿名というのはバーチャルリアリティ(VR)。
これをVRの近接概念であるAR(Augmented Reality、拡張現実)と比較すると、その違いが明らかになってくる。両者とも同じ"Reality"というワードを使っているものの、現実世界に立脚しながらその価値を多様化したり高めたりするのがARだとすると、VRは完全に現実世界とは切り離された「もうひとつの世界」において展開されるものである。似ているようでだいぶ違う。
ここでのARはセカイカメラみたいな技術的側面からのARを指しているのではなくて、例えば実名を推奨しているFacebookはまさにAR。小さな例外はあるにせよ、現実世界でのコミュニケーションを補強するツールだし、実名である以上現実世界とのリンクは避け得ない。
当然、どちらが良くてどちらが悪いという議論に意味はなくて、人によって、あるいはひとりの人間の人生においてもタイミング次第で「有用な"Reality"」は変化する。ただ、今この瞬間に、WEBはリアルと連結しながら人生を豊かにするもの、すべきものだと考えている人はAR型を支持し、WEBは人生を豊かにするものかもしれないけれど、あくまでバーチャルであって、リアルとは切り離して考える人はVR型を支持しているはず、それだけ。
例えばエンターテインメントとしての有用性はVRにあると思うし(「実名のリスク」という足かせ無いほうがはっちゃけられる可能性が高い)、「リア充」のためにはARを選択すべきことは間違いない。どちらにもメリット・デメリットがある。
ちなみに先日、とある講演をしたときの質疑応答で「1人の人間が複数のアカウントを使い分けているという「問題」についてどう考えるか」という質問を頂いた。背景には、あるアカウントに対してマーケティングコミュニケーションを行おうとする場合に、アカウントがその人を完全に表現していないので、不十分なコミュニケーションになる可能性がある、というもの。至極真っ当な問題意識だと思う。それに対してぼくは(質問に真正面から答えていないんだけど)、「人間の人格がそもそも単一ではないので、むしろそれはあるべき姿かもしれない」と答えた。
仕事をしているときの自分とプライベートの自分、家族といるときの自分とひとりでいるときの自分。様々な「自分」を多かれ少なかれ使い分けながら人間は、少なくともぼくは生活をしている。それを無理に単一のアカウントですべて代替しようとすること自体に無理があるんじゃないかしら、と。そこに匿名の自分、匿名のアカウントが存在していることは、人によってはとても自然な状態なはずで。
※もちろん、メディアのサイズを測ったり語ったりするときには厄介な問題になるので、そういう視点においてはなんらか対策は必要なんだけど。Facebook5億人ってマジか、みたいな。
で、じゃあFacebookは実名縛りのまま、つまりAR縛りのまま国内でシェアを取れるのか、という議論についてはまた改めて。ちなみに「Officialな自分」というのを表現する場としての活路はあると思っています。