Day12 – プライヴァシー

WIRED風なことに意味はありません。ヴァ。あといらすとやを生まれてはじめてつかっている。

子どもが今年小学校で、それに伴って、デジタルのパブリックスペースにある彼女の肖像に対する考えかたを再度検討しないといけないな、となっている。何の理由もなく、なんとなくなんだけど、まずあり得るのが、同級生がスマホで Hannah Honda とか検索して、Hannahが見られたくない写真がヒットする、みたいなのが最悪なパターン。どうすれば? アクセシビリティがあるリソースを片っ端からUnlistedにするのが正解なのか? あるいは…。

リスクを最小限にすることか、あるいはリスクに強い子どもに育てることか、そのいずれもなのか、答えはないけど、考えるのにはいいタイミング(そして、何らかアクションをするのであればギリギリのタイミング)だと思いました。


Day11 – パーパス

珍しく本文と関係のあるアイキャッチ画像です。22番。

夜中に何度か寝落ちしながらソウルフルワールド完了。子どもと一緒に観られるかなと思って(実際にRayと少しだけいっしょに観た)観始めたけど、ガチガチの大人向けファンタジー作品。そして良作。

キーワードであるSpark(きらめき、だっけ? ときめき?)は別にパーパスなんかなくても日常に存在する、それでいいんだ、と。まとめてしまうとそれで終わってしまうのだけど、視聴者の人生と共鳴して観たひとの数分のストーリーができあがるんだろうな、って。あとSparkはSpark Joy(だっけ?)からこんまりを想起してしまうのでちとな〜、と思った。こんまり頻出する。

今の学校で教え始めたときから少しも変わらず、若者はPIXARに憧れていて(うちの大学だけじゃなくて、広告会社のインターンに来る若者にもDisny/PIXAR志望はめちゃ多い)、数年前まで「なぜそんなに? 別のコンテンツメーカーでもよくないか?」と冷めた感想を抱いていただんだけど、ここ数年で完全に手のひらを返す結果となった。どれだけ多くの人の人生を、毎日を、明日を力強く、やさしく、魅力的に支えているであろう。わたしも15歳くらいだったら死にものぐるいでPIXARに入るべくがんばるんだろうな〜。

人生にパーパスなんて要らねえんだよ、と、100%言い切れない事情もあるけど、そういうのもひっくるめて「きらめこうぜ!」と叫びたくなりました。あ、キラメイジャーか、これは。


Day10 – 1次2次3次

写真はNaomiさんに「今日はこんなフードカートがいるよ」ということを連絡するための状況連絡写真。超事務的な目的で撮影された写真は写真って言うより情報よね。

何を書こうともっていたんだっけか、と書いたら思い出した。「2次ソースはもう摂取しないでいいし、なんなら3次ソースはめちゃめちゃ要らないのでは」の話。たくさんの情報を摂取しながら毎日生きてしまっているけど、それよりも、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、口で食べて、みたいなことをとてもとても大切にしたほうがリーズナブルな気がしてきている。もちろんこれは加齢に伴う情報摂取体力の低下、ということもあることは自覚しつつなんだけど。

具体的にはNewspicks的なもの、はてなブックマーク的なもの、この辺の「3次ソース」を意識的に遠ざける(NPは普段から見てないから問題ないけど、はてブは問題だ)こと、そして、2次ソースっていうのはニュースとか、あとSNSポストとかで、広く誰かしらない人に読まれることを前提とした情報で、それもまあ価値としてはそんなに無いなって。

自分が目にして感じたものと、あとは1対1(あるいはそれに類する少人数)で話した内容を中心に思考して、あとは必要なタイミングで2次→3次という順に検討、検証していけばいいのだと。最初から3次とか2次に接しているから予断も増えていくし、「あそこも検討しないと、思考する前に」みたいに、フットワークを鈍らせている感じもする。

というわけで、1次に振っていきます!」


Day9 – 多様性と人類の可能性

世界が色々すごい。色々すごいとしか表現のしようがない程度にすごいと思うのだけど、すごいのが更にすごくなっていくスパイラルを見ている感じがして、それがいちばんすごいなあ、と思う。何言ってるか微妙にわからないかもだけど。

自らに信じたいものがあって、対象物たる信じたいものが窮地に立たされた際の信じたいものの振る舞いによって、信じたい側は、通常の判断能力であれば到底到達し得ない論理になっとくし、さらに先鋭化していく。一般的に民主主義は数の正義であり、窮地に立たされることはイコールマイノリティであり、Diversityだ、Inclusiveだという昨今においてマイノリティであることは言論空間上では「有利に」働くことが多く、それが結局のところ過剰な状態を作り出しているのだろう。

人間はそもそも多様であって、いかなる思想信条も(他社に害を与えない限りにおいては)尊重されるべきだ、といくら理性では理解していても、目の前に「これはすべて陰謀だ!」と他人の目に見える形で設置されているオピニオンを見ると「多様性っつーのもなんだかなあ…」と思わざるを得ない。人間はこの状態を乗り越えられるのか。乗り越えたその先には何が待っているのか。あれ、戦争?


Day8 – 写真

わたしが初めてカメラを意識的に使い始めたのは確か小学校4年か5年のころ。父親から誕生日プレゼントにオリンパスのOM-10をもらったことがきっかけ。当時の本多少年には「鉄道」という写真と相性抜群の趣味があり、自宅から10分ほど歩けば撮影に丁度いい小田急線の線路があり、ということでそこからしばらく今で言う「撮り鉄」をやっていた(乗り鉄でもあった)。おそらく同じ年代で一眼レフを使っている知人はひとりもおらず、また、コンパクトカメラでさえ小学生が持つということには違和感しかなかった時代だったと思う。

翻って今。スマホ、タブレットと言う名のカメラが家中に転がっていて好きあらば写真も動画も撮りまくっている。今日の夕飯時にも「Daddyをタイムラプスで撮るの」とHannahが言って、iPadを取り上げようとする親をうまく静止させていた(させられたのはわたしだけど)。一昔前のデジイチよりも、そして本多少年が胸をときめかせていたOM-10など比ではないほどスペックの高いカメラがそこら中に転がっていて、直感的に操作できて無限に撮れる。Google Photoに突っ込めば勝手に判別されて便利に検索できる。なんなら加工だってワンタップである。30年ちょっとでこれだけ時代は進むんだな、と、ついつい遠い目になる。

今の子ども世代にとって、写真はどういうものになるんだろう。来るか来ないかわからない瞬間を待って、フィルムを巻く、ストロボのスイッチを入れる、そういうのも絶滅危惧種と言うか、「絶滅危惧仕草」的になっていくのね。文化財として保護しよう。そうしよう。